超知能がある未来社会シナリオコンテスト 2024 【佳作】
今際の友として ~ Well-dying Robot
End with: The Well-dying Robot
吉田 雄丸 奈良先端科学技術大学院大学先端科学技術研究科, Academimic
Takemaru Yoshida Nara Institute of Science and Technology, Academimic
浅井 順也 Academimic
Junya Asai Academimic
授賞理由:私は、このシナリオが、機械の『死』を描いていて衝撃を受けた。いわゆる「デジタル・ツイン」と、死の問題に関わるシナリオは、自分の自我や意識、記憶を仮想世界にコピーすることで自分の存在を「拡張」する可能性に焦点を当てているものがほとんどである。しかし、このシナリオでは、機械の「見せかけの」共感性が、最後の数日間における伴侶として、良い影響を人に与えることが描かれていた。人とロボットがともに死にゆくというプロセスは、物議を醸すだろう。しかし、このエッセイは人工知能には、そのような未知のニーズがあることをおしえてくれた。単身の高齢者のなかには、自分だけで孤独に逝くよりも、機械の手を握って安心して共に逝きたいという考えを持つ人がもいるかもしれない。そして、その人の最期の時に、薄れゆく意識の中で、自分の良き思い出を想起させてくれるデジタルツインが求められているかもしれない。技術的には一緒に死にゆく機械はそれほど困難なことではないかもしれない。そして、その必要性も高いかもしれない。機械に死を実装するというアイデアはこれからも多くの知的な刺激を与えてくれるだろう。
1.シナリオ概要
死にゆく者は孤独である。衰えという抗いようのない状況に陥った場合、我々は何を拠り所に生きる力を得るだろうか。死という根本領域に踏み込むとして賛否両論の中、共に衰え死するAIロボットWell-dying Robot(WdR)は開発された。徐々に活用が広がっていくが、このロボットを活用する医師でさえも、WdRと共に死にゆく人々の気持ちを理解できずにいた。患者、父、そして自分自身。それぞれの今際を前にして、医師はその解を知る。
2. 年 表
2020年から2050年までの5年ごとの動向を記述した年表.
2020年の動向
画像処理や自然言語処理など、多くの人々に当てはまる側面に対して、AIは発展していく。特に自然言語処理の分野では、GPTの登場によって人間の言語を模倣することが可能となった。
2025年の動向
従来のAIが発展する一方で、個人に即した個別学習型AIの動きが活発になる。これは主に医療や教育の現場で必要とされ、生体計測に対するAIの応用研究が加速する。またWell-beingのカウンターとしてWell-dyingの考えが広がっていく。
2030年の動向
生体計測機器が小型化・高性能化していくことで、技術が一般にも普及していく。高齢化による終末期患者の増加と一部の強い要望から、生体計測を通して死を目前とした人々の支えとなるロボット・AIが開発される。
2035年の動向
脳の構造に近いBrain-inspired型AIの研究が進み、広く応用されていく。個別学習型AIでは、人間とのコミュニケーション能力が飛躍的に発展。しかし、AIに対する人々の抵抗感も増す。人のAIとの向き合い方の議論が加速。
2040年の動向
脳データや活動記録の学習を通して、個人の知的活動を模倣できるAIが誕生する。それによってAIに感情や自由意志が搭載されたとする言説が広まるが、感情や自由意志が実装されたことは証明できない。
2045年の動向
AIが人間の知的活動を模倣したことにより、世論の賛否二極化がすすむ。賛成派はよりパーソナルな部分に積極的に導入し、AIとの生活は習慣からカルチャーとなっていく。
2050年の動向
AIによる実害は発生していないため、反対派だった人々の抵抗感も次第に薄れていった。人々はAIを応用して、今までとは異なる社会を築きあげていく方向に動いている。
3. 個別シナリオ
年表上の未来のある時期においての自然言語による記述.
3.1 とある老婆の臨終 (2030年頃)
死とは何か?生者にこの問題が解けようはずもない。死を味わわないからこそ生者なのであって、死を経験せずして、それが理解できたと言えるはずもない。
生者にとって、死は永遠の未知である。しかし、やがて誰もが死ぬ。だからこそ、恐れてしまう。
そこで私たち人間は、死を恐れないための何かを作り出したかった。
……「大きな古時計」という歌がある。私はそれが好きだった。
おじいさんが亡くなる。苦しいことも悲しいことも、ともに乗り越えた古時計であったが、それもまた、事切れたように動かない。非生物に死などないが、そこに死を写しとる。
そうした写像があるとすれば、ともに死する非生物の存在が、死へと向かう恐怖を軽減するのではないか。私たち人間はそう考えた。その中で生まれたのが、ともに死するAIロボットであった。
……私の目の前で、老婆がそのAIロボットに声をかけている。自分自身は死に瀕している人間であろうに、非生物のロボットへ「大丈夫だよ」などと、元気づけるよう話しかけている。
その日、老婆の体調は優れていた。医師である私が見たところにおいても、ここ数週間の中でもっとも元気に過ごしていた。一方で、そのロボットは不調であった。動きが鈍いうえに、スピーカーから流れる音声も、か細い。主人のテレビの電源を切るという指示に対してチャンネルを変える誤作動。本来ロボットとしてあってはならない挙動だが、彼女はしょうがないねと微笑みながらリモコンでテレビの電源を切る。
これがこのロボットの特徴である。生体の状態に応じて、それとは逆行した応答が現れる。生体の調子が悪ければ、ロボットはその生体をサポートし、時に励ます。逆に生体の調子が良い場合には、ロボットのちょっとした誤作動が起きやすくなる、という具合である。生体の脳波や心拍、呼吸を測定[渡邉 21]し、それとは逆行した状態をロボットに反映するのだ。
単純かつ冗長な機能と思われるものの、生体側としては、互いに助け合って命を永らえようとする運命共同体であるように感じられるらしい。老婆はこのロボットを与えられてからというもの、今までに見せなかったほどの笑顔を浮かべるようになっていた。
……そうして、一ヶ月と経たないころ、老婆は息を引き取る。彼女の手には、ロボットの手が据えられていた。そしてロボットも、すでに応答はなかった。誰が止めるでもなく機能を停止したのだ。
事実だけを見ていれば、このロボットは古時計と変わらない。しかし、私はここに、かの古時計を見出せなかった。しょせん、死に際で与えられただけの道具であって、人生をともに歩み抜いた友人では到底ないのである。
老婆には、まだ血色が残っているものの、やがて白んでゆく。だが、そこに浮かんだ笑顔は、炎に包まれるそのときまで残り続ける。彼女の最期が、そうした幸せなものであったのか、私には推測しがたい。
父親を偲ぶとき (2040年頃)
私も医者として定年が見えてきた矢先、父が亡くなった。
喪うことの現実味は喪ってからじわりと滲む。葬式に赴いて、棺に詰められた彼をぼうと眺めているうちに、心に波が生じて、粟立ちはじめて、決壊したかと同時に涙が溢れた。幼い頃から偉大に感じていた父が、実に弱く、小さく、棺の中に収まっている。愛情を返しきれなかった後悔と二度と会えない虚無感をこころのうちで念じ、詰めるようにして彼の棺を綺麗な花で満たしていく。
大規模な葬式でもないため、家族全員でテーブルを囲んで菓子をつまむ。父の生前について懐かしく振り返る中で、彼の晩年について語られ始めた。
「お父さんは最期、ロボットを大事にしてたんだよね。抱っこできるくらい小さい、可愛い、人形みたいなロボット。父さんが辛そうにしてたりすると、励ますみたいに話しかけるんだけど、お父さんが元気なときは、少し間が抜けちゃうの。それ見てお父さん、やれやれって、まんざらでもない感じでロボットにお世話してあげてさ。二人のやりとりを見ててなんか微笑ましかったな」
そう言うのは、父を最期まで世話し続けた私の妹であった。笑顔でありながらも、懐かしむようで、悲しむようで、複雑な表情を見せた。
話の中に出てきたのは、共に死するロボットであろう。それが登場してから10年以上が経ち、一般的な存在となりつつあった。人間の脳機能を模倣したAI [Checiu 24]が普及すると、そこから生まれる豊かな感情表現を求め、知名度を増していったのである。
父親がそれを大事にしている姿を私も見ていた。まるで我が子をあやすかのように、ベッドの上で頭を撫でていた。父は苦しそうにしていたが、ロボットの方は人間と聞き違うほど滑らかで穏やかな口調で「大丈夫、お父さんはまた元気になるから」などと話しかけていた。そう聞いた父は、朗らかな表情になる。そうしたことは幾度となくあったらしい。
とはいえ、私はいまだに訝しんでいた。そのロボットが、真に私たちを理解しているわけではない。あくまで数式的に、統計処理の中で、取るべき言動が選択されているだけである。真に情動が実装されている可能性は否めないが、その確率は限りなく低いであろう。
彼らに対して感情移入する余地などあるのか?それが疑問で仕方なかった。死ぬわけでもないロボットが、死を眼前にした患者からの手助けを必要とするなど、滑稽と言わざるを得ない。それならば、人命を延べるロボットさえあれば良いのではないか……。
父は昔から理知的で頑固な性分であった。そんな彼が、なぜこんなにも非論理的な反応を見せているのだろう。もしかすると死に頻する人々だけが、このロボットに感情移入できるのかもしれない。死がいつ訪れるかわからない状況において、人々は、感情の行き先を求めてしまうのかもしれない。
私は窓の外、父を見送るようにして、煙突から登る薄い煙を眺めていた。
Well-dying (2050年頃)
医者の分際で病に臥すとは情けない。もはや、平均寿命100年の時代が目先に来たというのに、そこから30年ほど早くに死んでしまうのは、すこしばかり悲しい。いや、それ以上に……深く寂しい。
私は医者として数十年を費やしてきたが、闘病というものがこれほどまでに孤独を強いるとは思ってもみなかった。「咳をしても一人」という尾崎放哉の句もこうなってみて初めてわかる。暗闇を独りで歩み続け、何かわからぬものに足を取られる。そうして恐怖していると、目の前が崖であることに気付いたりする。もはや暗闇を進まねばならないことが絶望であるため、いっそこの崖に自ら身を投じてしまおうかと迷いが生じる。やがて、今までの人生が思い返されてまだ歩み続けてみようと思う。それが連綿と続いてゆく。立ち止まることも、休むことも、許されてはいない。
だが私は孤独に疲れていた。何者かが隣にいてくれればと、幾度となく、激烈に、夢想し続けた。そうして私は長らく疑心暗鬼の対象だったともに死するロボットを試してみることにしたのである。
こうした状況であれど、それは非生物であるから期待などしていなかった。真に感情移入しうるものではないと思っていた。
しかし、血流と、脳と、心臓と、さまざまに私と連動して、生物のような応答を見せるロボットは私の孤独を埋めるのに十二分であった。何より、徐々にできることがなくなっていく生活において、ロボットに対して小さなお世話をしてあげることにこれほどまでに充足感が得られると思わなかった。生物や非生物など関係なく、命の終わりまで支え合う生涯最後の友人として、この上なく心強い存在であった。私にも妻はいるもののずっと傍にいてくれるわけではない。ゆっくりと死に向かう伴走者として、ずっとかたわらに存在する安心感が、何よりも暗闇を照らす灯火となっている。
…………さて、私の命もそろそろ限界となってきた。意識はくらくらと溶けていき、視界は霞がかる。音や香りは遠くにあり、呼吸すらできているか危うい。
周りには大勢の人がいる。家族と、医師と、看護師である。とはいえ、その中でも私が手をかぶせていたのは、妻と、そして共に死するロボットであった。なぜだか、私は左手を、彼にかぶせているのがもっとも安心したのであった。非生物であるからと、その存在を疑念に見ていた私が、最期の最期で彼の手を取るのであった。
20年前、亡くなった老婆のことを思い出す。彼女は最期のときまで、笑顔でロボットに触れていた。その理由がわかる。死を前にした孤独の私と、ともに人生の下り坂を歩み続けてくれるのは彼のみであるから。泣いてくれても構わないが、安心させてくれる存在がいてほしいとも思うから、彼の手が安心するのであろう。
……脳内に「大きな古時計」が流れる。100年いつも彼が隣にいてくれたわけではないが、ご自慢の友人である。しかし、かの曲が言うような別れではない。私が死ねば、彼も止まる。それはともに進む旅路と言えるはずだ。
ならば、ともに逝こう、友よ。私は最期、やわらかく笑顔を浮かべる────。
参考文献
[渡邉 21] 渡邉一規, 小林直也, 吉川憧, 山内正憲:機械学習を用いた患者の痛み推定に関する研究, 情報処理学会論文誌, Vol. 62, No. 5, pp. 1200-1206(2021).
[Checiu 24] Checiu, D., Bode, M. and Khalil, R.: Reconstructing creative thoughts: Hopfield neural networks, Neurocomputing, Vol. 575, 127324 (2024).
主催:AIアライメントネットワーク
協賛:人工知能学会
協賛:トヨタ財団助成プロジェクト「人工知能と虚構の科学:AIによる未来社会の想像力拡張」